昭和五十年十一月六日
御理解第八十五節 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり」
現代の医学から言うたら、もう本当に無茶な、もう如何にも野蛮なふうに聞こえます。なかなか信心頂いとりましても、教祖が教えておられる事を本当にそのまま実行するということは、出来難い程しの事を、ズバリとこういうふうに教えておられます。
現代の医学では、進んだとは言え、まだまだ迷信の程度にしか過ぎないと私は思うのですけど、本当でないことを、そうだと医学上では説かれとるわけでございましょうけれども。段々教祖様が仰っておられるこういうことがです、本当だということがわかって来ることだろうと思います。産みの苦しみといったようなものも、だからなくなって来る。人間の言わば観念といったようなものが、本当に痛い痒いまで左右するということを、この八十五節には説いてあるわけです。
お産の時は、それは苦しいもんだと決めておる。またここにありますような事は、如何にも無謀のように聞こえます。私は申しますように、薬は毒だと、もう一番簡潔に言うなら、確かに薬は毒なんです。ですから実を言うたら、薬は飲まないが一番良いです。只飲みます時は、毒薬変じて薬となるように願って、いわゆる祈れ薬れというようになるのです。
昨夜、壮年会でございましたが、やはり人間の智恵とか、考えとか、思いというものは本当に幼稚なものだなと、本当にわからん凡夫とは言いながらという話しが出ました。けれども、二年後に奉仕される、ここでの合楽教会開教十年の記念祭には、先生、よその御信者さん方、御直会の上げる場がないですよと、部屋が次々出来た。広うなったというけれども、もうこれではどうにも出来ません。どうか一つ今から段取りをつけて行かにゃ、工夫をつけて行かねばという話しが出たんですけどね。
本当に、あの、ここのお土地を購入する時に、今の参道のところだけを買わせてもらって、ここがあった。そして今の駐車場のところは、買わない筈だった。今から考えて見ると、自動車をどこに置くつもりだっただろうかと。もう今度の記念祭にはどこに自動車を置くだろうかと、収容しきらん、どこか駐車場を今の内に探しとかにゃならん。
本当に理詰めよう行きよるようにあるけど、人間の考えとか、憶測とか智恵というものを、そこに限りがある。神様は本当に後々の事をちゃんと見通しですからね。今の駐車場のところは、「もうここはもろうてもらわんならん。しゃっち買うてもらわんならん」と言うて、言うなら押し売りをされるような事であった。そしてあそこを、「なら金はなかばってんしようなかたい。買わじゃこて」と言うて買ったんです。無理に言われて。
本当に、如何に神様がそうさして下さってあったか、神様の考えと人間の考えと、それ程違うというような話しが出ました。だからこの八十五節だってやっぱりそうではなかろうか。例えて言うと、腹帯をせずといったようなことは、現代の産婦人科の新しい先生では、「帯はせん方が良い」と言われるそうですね。というように、他の方の全てのことにです、これの方が自然で本当だと、本当に人間が自然に即応した生き方であり、またはことだということを説いてあることです。
ところが、私共の小さい学問とか才覚とかで、結局お産というものは苦しいものだと、産みの苦しみだというふうに、観念づけられておる。そういう観念があれば、信心によって一つ一つ取り除かせて頂いて行くところにです、私は本当のおかげがある。受けられると思うです。
昨日、久留米の石井さんが発表しておりました。昨日はあちらのお母さんの、いわゆる祥月命日でありました。それで家族みんな、丁度四時の御祈念に合わせてお礼をさせて頂きましたが、昨日、朝まだ目がさめる前に頂いたことが、「合楽の信心は感謝に尽きる」と頂いたそうです。有難い、「もう一切を有難いと受けることに尽きる」とこう言う。私も、これは確かにそうだと思います。けれども、私共の観念で以て致しますとです、有難いこと、有難くないことがあるわけです。
実を言うたら、有難くないことも、それは実を言うたら、有難いことなんだけど、分からんだけのことです。それを合楽では、どうでもその真実を、体得、体験させて頂くために、「成り行きを尊ぶ」とか、「全ての事に御の字をつけて、御事柄として頂いて行け」ということになっておるのです。
そして、後々でわからして頂くことは、成程御事柄であったということがわかるのです。だから人間の智恵をもってしては、有難くないことでありましても、考えではそうでありましても、神様も、本当のことがわかったら、それは有難いことになりましたが。それにまあ、続いて話しておりましたことは、例えば人間が人間を恨んだり、傷つけたり、言うならば、憎んだり、または恨んだり、いろんなことを思ったり致します。
けど本当に、一切が有難いと言はれておることが事実であるということを、まあ、根本として、実際は神愛だと、有難いことなんだということを、根底にして思う時、考える時です、人を憎むとか恨むということは、すでにもう憎む時に、自分の心が傷つけられておるということを言っております。もう確かにそうなのです。
あん奴がと、例えば憎く思うです、時には、すでに自分の心がです、もう散々に傷つけられておるのです。それが例えば、自分の心が有難いとわかる時には、あん奴がという時にはです、あの人がということになって来る。いやあの人がということになって来る。
どうした奴じゃろうかと、例えば相手にどうした奴じゃろうかと思う時には、自分の心がもうすでに、どうした奴じゃろうかになって来ると言うのです。だから本当に、例えば思いもされないことになりますね。自分の心を大事にするということはそういうことなんです。
私は「不浄毒断ち平日の通り」と最後に結んでおられます。「不浄毒断ちなし」と仰っとられます。「平日の通り」とね。「あれがどうしたから自分が困るようになった」ということはあり得ない。それを、「あれがあんなに言ったから、あれがどうしたから自分が困るようになった」と言うて、相手を恨む時には、もう自分自身の心が、ぐさぐさに傷つけられておる時です。実際は、不浄もなければ毒もないのです。
現代の医学、栄養学と言ったものではです、「何の病気にはあれはいかん。これは良い」というようなことを言うのです。「そういうことがない」と言うと、例えば、言う者を「非常識」と言います。例えばなら、私が糖尿病ですけれども、ボタ餅も食べればお酒ものむ。しかも遠慮して飲むということはない。飲みたいだけは飲む。食べたいだけは食べる。飲みたいだけは飲むと、私はそういう観念を、私はそれを離れておるからそれが出来ると思うです。
実際はそうじゃないです。そこで信仰的表現を以てすると、神様が人間の命のために作り与えて下さる物に、毒やらあろう筈がないという頂き方をするわけです。そこでです、神様の思いと人間の思いと、そのように違うのですから、昨日、一昨日でしたかね、頂きました。朝の御理解の中でもありますように、「神の指導を受け、神の監督を受けての日々でなからなければならない」ということになります。
言うならば、神様が言って下さる、教えて下さることを行じて行くという生き方。それでも尚且つ、人間生身を持っておることでございますから、どこにお粗末か御無礼かがわからん。それをいつも神様が監督して下さるから、お違って行きよるぞ、間違いよるぞと、それをお気付けだというふに、昨日、一昨日でしたかね、そう言う御理解を説いてございます。
私共は、例えばこの八十五節でもです、そのままぐ呑みに、教祖様はそのように仰るからとは思うけれども、実際教祖様は男でね、自分が産んだことのなかけんで、こんな無理なことを言うちゃるということをね、聞こえんこともないですね。自分が男じゃから、妊娠したり産んだことのなかけん、こんなこと、無茶苦茶なこと言うとんなさるけれども、ということも思えるですけど、実際はそれが本当だということなんです。
ただ私共がね、少しばかりの学問とか、少しばかりの常識でです、押し測ってものを見たりしたり致しますから、やっぱりお腹が大きうなったら、五日目には岩田帯を締めなけりゃならないとか。生まれてすぐ母親の乳を飲ませてはいけないとか、いわゆる不浄毒断ちといったことを致しますようにです、一切が言うならば神愛。一切が神様が人間の命のためにという。そこんところがわかった時に、成程降るもなからねば、照るもない。毒もなからねば、薬もない。平日の通りということになるのです。
昨日、喜代司さんが言われるように、「合楽の信心は感謝に尽きる」というのです。そりゃ、なら、自分の都合の良か時に感謝するのじゃない。一切が感謝の対称ならざるはないと言う。言わば達感(達観)とでも申しますか、そういう思い込みが出来れる稽古です。信心とは、そこに有難い有難いと言う心に、本当に有難い有難いと言う、言うなば極楽の世界も展けて来るというわけになるのです。
本当にです、信心させて頂いたら、金光様の御信心させて頂くなら、そこら辺のところの、言わば観念に縛られてしまうようなことのない生き方をです、目指さしてもらい、言うなら、自由無碍な生き方の出来れる、そして自由無碍なおかげの頂けれる世界を目指して、お互い信心させて貰わなければいけない。
この八十五節は、言わば、妊産婦に対する御理解ですけれども、その御理解は皆さんに聞いて頂いたいような、もう本当なことの、ギリギリの点を説いておられるね。それを私共は手前のところにおって、そこを目指して、一つ一つ、成程教祖の仰ることに間違いはない。成程教祖は嘘を仰ってないという事実をです、体験して行くということは、観念が一つ一つ抜けて行く。
本気で薬は毒だとわかったらです、もう本当におかしくて薬だん飲まれん。本当にそうなんです。薬は毒です。只それを変じて、痛むものが痛まんようにとか、熱なら熱が下がるとか、それはです、目先の楽な事にはなるけれども、本当言うたら毒なんです。「この風邪薬は余り胃腸には障らない」といったようなことを言うでしょう。あれはあんまり毒にはならないという意味なんです。毒になるのです実際は。
ですから今、風邪薬も何もです、もう飲まんで済むようなおかげを頂いたが一番良いです。もうどうにも苦しゅうして苦しゅうしてたまらん。だから痛み止めなら痛み止めをすると言うてもです、これは毒薬変じて薬にしておるのですから、一つ皆さんの観念の中に、薬は毒だということになって来ると、もう本当に、もうそれこそ、御神酒さんも御神米も、勿論いらんようにおかげ頂かにゃいけません。薬は勿論です。御神米やら御神酒さんは毒にはなりませんけどね。飲まんで済むようなおかげを受けなければいけんと言うのです。
それには一つ観念をね、そういう只今聞いて頂きましたような、平日通りのおかげ、喜代司さんが頂いたという「合楽の信心は感謝に尽きる」ということです。一切がお礼を申し上げること以外ないと。ところが、私共はです、お礼ば申し上げんならんことに、憎んだり、妬んだり、相手を傷つけたりするわけです。お礼ば申し上げねばならないことに。ですから今、そういうふうに、人を例えば傷つけるような心は、もうすでに自分自身の心がグサグサに傷つけられておるんだというふうに、喜代司さんは昨日言っております。
ですから、そう言う例えば、有難いという心を以てすれば、お礼の心になるのだけれども、その有難い心を外して思いますと、それがもう相手が憎いとか、恨むとかということになる、なって来る。勿論そういう心では、おかげが受けられない心なのですから、恨みもなからねばつらみもない。憎しみもない。「平日通り」それが言わば有難い。一切が有難いということになるのです。そういう真実をです、目指して、それに近づかせて頂く、そう思い込ませて頂く信心を頂かしてもらうということが、信心の稽古です。どうぞ。